牧師コラム2

【仕えではなく交わり

 

 牧場の集いは「仕え」ではなく「交わり(付き合い)」です。

 

 クリスチャンはイエス様によって選ばれ救われた者として、その恵みをこの世の中で仕えとして表す者です。しかし、牧場の集いでは牧者だけがまたは何方だけが犠牲をしながら仕える者になってはなりません。まだ主を知らないVIPを除くみんなが神の家族としてお互いが助け合う関係になることが大事です。

 

 牧者は牧員を助ける者となり、牧師は牧者を助ける者となります。それが聖書の教え(エペソ4:11)であり主が望んでいる理想的な教会の姿です。教会と牧場(小さな教会)の大事な役割はVIP(魂)を救い、弟子を作ることであります。

 

 家の教会はより聖書的な教会を建て上げる目標を持って初代教会の優れた伝統を学ぶ努力をしているのです。館山教会の私たちも同じ目標をもって、同じ志によって成長することを願っています。

NO 264(2024年4月28日)

 

 

 

【目を覚めると捧げる祈り

 

 聞いた話でありますが、素晴らしい内容であるので皆さんと共に分かち合いたいです。私たちは毎日、新しい日を迎え、朝に目が覚めると、必ず捧げなければならない3つの祈りがあります。

 

 一つ目の祈りは、「愛する主よ、私に許してくださる今日の一日を大事に生きるように。絶対に当然のことのように思わないようにさせてください。」

 

 二つ目の祈りは、「今日の一日が思いの通りにならなくても絶対に落胆しないで、明るい心を持つことが出来るようにさせてください。」

 

 三つ目の祈りは、「主の御声を聞くことが出来るように聞く耳を与えてくださり、聖霊の導きによって毎瞬間を生きますように導いてください。」

 

 この祈りで毎日を生きる者は生きておられる父なる神様と共に歩む人生を生きることが出来ます。私たちにいのちを与えてくださった全能な神様を意識して生きる様にしましょう。

NO 263(2024年4月21日)

 

 

 

【自分の中のイエスを伝える者か、自分の外のイエスを伝える者か

 

 教職者はとても危険な職業です。だからヤコブの手紙では「厳しい裁きを受けることになる」教師にならないように(ヤコブ3:1)と警告しています。

 

 牧師は更に詐欺師になり易い職業かも知れません。自分自身は神様の御ことばに従わずに教えたり勧めたりする恐れがあるからです。自分は御ことばを全うしないで他人に勧める職業って大変な働きです。だから牧師は自分の働きの為に常に神様を畏れつつ慎みながら絶えず努力しなければなりません。努力を惜しむと偽善者になります。

 

 「自分の中のイエスを伝える者」になるのか「自分の外のイエスを伝える者」になるのかが教職者の一生の戦いです。聖徒の皆さんも変わりません。聖書の真理の御ことばを悟ると、どんなに弱くて、高齢者で在っても人生の意味を知り、希望と喜びと感謝に満ちて生き生きとした毎日を生きるようになります。

NO 262(2024年4月14日)

 

 

 

【信仰による決断の奇跡

 

 フィリピンのデュマゲッティ・ブレッシング教会のシングル牧場のブリティニ牧者はフィリピンの首都であるマニラの国立大学の医学大学に全学年奨学金を受けることとして受かりました。教会も彼女自身も神様による祝福であると喜び感謝することでした。

 

 しかし、マニラに行くと、牧者としての働きは辞めざるを得ません。牧場も解散されるかも知れないしVIPのケアーは出来なくなります。悩んだ末、彼女はデュマゲッティの私立医学大学を選びました。勿論、奨学金はなく、貧しい家庭だから学費の負担が大きいけど、牧者の働きを諦めることは出来ませんでした。

 

 結果的に、韓国教会からの援助による入学金とフィリピン政府から与えられる奨学金によって学費の問題は全てが解決される奇跡を体験します。神様の御心を読む信仰による決断を通して主の奇跡を体験して、教会の多くの聖徒もチャレンジを受けました。

NO 261(2024年4月7日)

 

 

 

【宣教探訪

 

 フィリピン宣教探訪は私にとってそもそも計画されて無かったことであり、行こうともしなかったところでした。不思議に1回目は国際家の教会ミニストリーのチェヨンギ先生によって、2回目は藤原牧者ご夫妻によって経費の支援を受けて実現されました。全てが主による導きであると存じます。

 

 皆さんの尊い献金によってブレッシング教会礼拝堂の建築が完成されたことも大きな恵みであり、私たちがよい経験をして、より聖書的な教会を築き上げる為に学ばれたことを深く感謝致します。

 

 ブレッシング教会の貧しい環境の中でも牧員とVIPの為に犠牲を払っている牧者たちの献身を私たちも学び、刺激を受けました。信仰によって主が喜ばれることが何であるのかを気づきその道を選んだ者に与えられる奇跡を見ました。それはこの世が私たちの人生の終着駅でないことを悟られた者だけが歩められる選択であります。

NO 260(2024年3月31日)

 

 

 

【自制

 

 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の聖霊の九つの実は私たちがこの世にて得るものとして、御国に持っていく品性を完成させるものです。だからクリスチャンは聖霊の実を(出来ないけど)完全に実るように努力しなければなりません。それを聖書は「キリストの身丈にまで達する」、「成熟した大人」と表現しています。

 

 聖霊の実の中で実ることが一番難しい実は何でしょうか。私にとって一番難しい実は「自制」です。自制とは「やってはならないこと」をやらないことだけでなく、「やるべきこと」をやることも含みます。捨てることだけを意味することではなく、バランスを取ることを意味することです。それはお金の様に目に見えるものだけでなく、目に見えないものまでも含むことである為に、完成させるのに極めて難しい実です。だから最後に登場するのです。

NO 259(2024年3月24日)

 

 

 

【孤独感

 

 人間は衣食住だけが解決されれば幸せになる存在ではありません。根本的に人間は周りの人々と疎通して共感と関係を持ち続ける欲求がある者として、それが満たされなければ幸福感を感じることが出来ません。

 

 現代社会で生きる私たちが感じる孤独感は一人暮らしの人だけが感じることではなく、夫婦関係の中でも、教会に通っているキリスト者も感じえることです。「韓国教会トレンド2024」の調査では孤独感を感じるキリスト者の増加を主な現象として挙げています。韓国のキリスト者の46%が孤独感を感じているとのアンケート結果は非キリスト者よりは低い結果でありながらも、心を分け合う人がいなくて孤独感を感じている人が多いことを示しています。

 

 牧場の集いは心を分け合うのに大事な役割を果たしています。どんなことでも分かち合える牧場の集いになる様に努力しましょう。

NO 258(2024年3月17日)

 

 

 

【生きる力

 

 ある人がいました。

 その人はこの世に生まれる前に父を失い、幼い時に母も失ってしまいました。祖父母によって育てられましたが貧しい家庭であった為に小学校に通う時にも弁当を持って行くことが出来ませんでした。友達もいなくて、一緒に遊べる唯一の友達と言えるのが蟻でした。

 

 ある日、イエス様を信じていた彼が聖書から希望の御ことばを見つけました。ヨハネ1章12節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」人生を生きる希望がなかった彼に一つの光が射しました。父がいなかった彼に、この世を造られた全知全能なる神様が“私があなたの父だよ。心配することはない!”と語ってくださいました。何の心配も怖いことも無くなり生きる力が与えられ、人生の目的も与えられました。

 

 その方は今は牧師になって多くの方に主を伝えています。

NO 257(2024年3月10日)

 

 

 

【神様の誇らしい信仰者

 

 牧会とは子育ての様です。どんな親でも子どもの為なら最高に良いものを与えようとするし、どんな犠牲も惜しむことがありません。牧師も牧会する信徒の為に自分が知っている大事な聖書の知識、自分が経験した一番よいことを与えたいものです。だから私は館山教会信徒の信仰成長の為なら自分が学び経験して得た最高に良いものを与えたいのです。

 

 自分の人生を振り返ってみれば、神様は私を牧師とする為に様々な苦難と艱難と苦しみの経験をさせ、また様々な経験をさせました。時には無理やり苦しい道に追い込まれたこともありました。あくまでも皆さんの為でした。だから皆さんは神様の御前で最高の子として、成長しなければなりません。それが父なる神様が皆さんに望んでおられることです。私達の人生が神様の御前に誇らしい信仰者として生きなければならない理由が皆さんはその様な価値がある者だからです。

NO 256(2024年3月3日)

 

 

 

【幸せな家庭、健康な子ども

 

 先日、館山教会は韓国から専門家を招いて二日間「夫婦幸せセミナー」を開きました。韓国からご奉仕の為に館山に来館してくださった朴ナムソク長老ご夫妻によって素晴らしい学びの時となりました。

 

 韓国の教会は家庭の中で起こる多くの問題や課題を感じて様々な努力を続けて来ました。特に子育ての中で起きる深刻な問題に悩む方々の為に、その解決策として良い親になることを目指して「父の学校」、「母の学校」を開き、聖書的な良い父母の役割について学ぶ努力をしました。

 

 しかし、それなりの成果はあるものの子どもの問題を完全に解決することは出来ませんでした。研究を重ねることによって家庭の問題、特に子どもに関する根本的な問題は夫婦関係が悪いことによって生じることが分かりました。

 

 「夫婦幸せ学校」では夫婦の間のトラブルをエニアグラムによって、原因がそれぞれの気質の差と理解不足によって起こることが分かりました。子どもが幸せになる近道は夫婦が幸せになることです。夫婦の関係回復こそが家庭の幸せと子どもが健康に成長する道であるのです。

NO 255(2024年2月25日)

 

 

 

【この時代に生きる姿勢

 

 この前にフェースブックで見た文が心に長く残っていて、未だに私の心の中で響いています。その文とは「何故、私たちは人々が見ている所でやってはならないことを神様が見ている所でやっているのか?」でした。

 

 短い文であるけど、その文の重さは決して軽くなく、人間の弱さと罪性を感じさせる衝撃な文でした。神様を信じていると言いながらも誰よりも神様を信じていない者がクリスチャンかも知れません。生きておられる神様と常に共に歩む者でなければならないことを知っていながらも私たちはよく創造主なる神様のことを忘れてしまうものです。だからこそ、私たちは教会という共同体の中で共に信仰生活を営む必要があります。

 

 「ヒネニ(私は準備出来ました!お言葉をどうぞ)!」と神様に答えつつ、終末に備えて生きなければなりません。今はいつ主が再臨なさっても変でない時代を私たちが生きているからです。

NO 254(2024年2月18日)

 

 

 

【八福の教え

 

 山上の教訓の中で「八福の教え」または「至福の教え」とも言われる主イエス様の有名な八つの御教え(実は九つですが マタイ5:1-12)があります。

 

 神学者ジェームス・ブライアン・スミスは著書『善き美しい人生』で八つの教えは福を貰う処方箋ではないと言っています。この本文の殆どと言える程の多くの解説が幸いを頂く条件としての主の教えの様に述べていますからですが、イエス様が語ろうとする教えはその様な意味ではありません。

 

 徹底的な男性中心のユダヤ社会で、「女性で、異邦人で、貧しくて、五体不満足で、失敗した者は天国に入ることが出来ず、ただ律法をひたすらに守り続けるユダヤ人男性だけが天国に入れる」と思い込んで、社会から捨てられ絶望を覚えている人々にイエス様が”あなた方にも天国に入ることが出来る!”と希望を与える御教えです。福音の力こそが全ての人々に与える希望です。

NO 253(2024年2月11日)

 

 

 

【夫婦幸せ学校

 

 現代社会の夫婦関係や家族関係が崩れていることを良く耳にしています。まるで他人同士の様に、共に食事をすることもなく、生活空間を別にして暮らしている夫婦の話しも珍しいことではありません。

 

 夫婦は愛し合う恋人が結婚によって家庭を築き同居するものですが、何故、他人のような関係になってしまったのでしょうか。その多くが誤解からくる行き違いによるものです。愛し合う時には気づきませんでしたが、結婚してから敏感に感じられるお互いの理解できない気質が誤解として重なってしまった結果です。

 

 23,24日に行われる「夫婦幸せ学校」はエニアグラムによって自分自身の気質と相手の気質を確認して、その長所短所を理解しつつ学ぶことから夫婦の問題を解決します。問題ない家庭は何処にもないし、子どもの問題は殆ど夫婦の問題からくると言われています。積極的に参加して幸せな家庭を築きましょう。

NO 252(2024年2月4日)

 

 

 

【少子化に伴う努力

 

 館山地域の子どもたちの人口が減り続けています。私が館山教会に赴任してきた2016年の館山市の人口は4万7千名代でしたが現在は4万4千名代になりました。小中学校は統合されつつ、これからの見込みも減り続けることが予測されています。

 

 館山教会附属保育園も今までは志望する子どもの方が多かったのでしたが、2023年に初めて定員割れとなり、今年の入園児は去年よりも減る見込みであります。宗教法人館山教会傘下の保育園の活性化と共に宣教活動の為に何かの方法を模索しなければいけません。

 

 その中で、主の導きが与えられ金叔敬勧師が紹介してくださったJEBS (Jungchul English Bible School)と4D FRAME(子どもの創意性と創造性を活かす組み立てる玩具)を保育園とCSに取り入れることを計画して役員会の承認によりプレーハウス(遊び部屋)を建てることとなりました。全ての計画と働きの為にお祈りを願います。

NO 251(2024年1月28日)

 

 

 

【死に対する理解

 

 イエス・キリストを信じている私達と、この世の人々は人生の生き方、価値観、世界観、生きる意味等々様々な所が違いますが、特に違うことは死に対する見解と理解であります。

 

 キリスト者の私達はこの世が全てではないことを知っていて、この世は旅であり本当の人生を生きる為の練習の時に過ぎません。しかし、この世の人々はこの世が全てであるからこの世の成功、栄とご利益を求めて生きる者であります。

 

 だからキリスト者の死は故郷に帰る期待する道程の入口であるから期待と喜びと賛美と感謝がある通過儀礼である反面、この世の人々の死とは絶望と悲しみと苦しみが伴うことであります。

 

 そしてそれは本当に行われる事実として、天国の希望と地獄の恐れによって分かれ現れるものであります。だから私はいつも“イエス様を信じて本当に良かった!”と深く感謝しています。

NO 250(2024年1月21日)

 

 

 

【終末的な現状

 

 礼拝に参加していないけど自分はクリスチャンであると認識している「名ばかりのクリスチャン」は基督教界の中で問題化されて来ました。その大きな原因とは教会の世俗化による問題であったからでした。`

 

 「韓国牧会データー研究所」が去年末に公開した【韓国教会名目上教会員実態および信仰意識】調査によると、礼拝に参加しているけど、自分をクリスチャンではないと思っていて、救いの確信がない、聖書を読まない、祈らない、礼拝以外の奉仕等の活動をしていない人を「名目上のクリスチャン」と命名し、そのグループは「キリスト教の以外の他宗教にも救いがある」とに62%が「はい」と答え、信仰的な命題に関して確信がないことが分かりました。これは終末的な現状として教会の中で羊とヤギとに分けられる時(マタイ25:31-46)が来ていることを明らかにしていることでしょう。

NO 249(2024年1月14日)

 

 

 

【分別力

 

 BBCニュースによると、ローマカトリックは去年12月に教皇庁文書によって「同性カップル」や「非正常的なカップル」に対して司祭達が祝福することを承認したことを報じました。またイギリスのメソジスト教団は去年12月に「夫」、「妻」という性別による呼称を使用しない様に指針を下し、親、パートナー、保護者等の単語を使用する様に提示したそうです。

 

 この様な試みは人種、性別、年齢、人権等の用語と時代トレンドと巧妙に聖書的な用語を混乱させ、結局は聖書の真理を毀損させることがその目的であります。この世は益々非聖書的な価値観によって人々を神様の教えと離れさせようとする動きがより露骨的に現れています。新年は私達の予想よりも早く終末的な徴が様々なニュースに混じり込まれ私達の理性と霊性の判断力を失わせる働きに注意を払わなければなりません。正しい分別力が必要な時代に生きていることを忘れてはなりません。

NO 248(2024年1月7日)

 

 

 

【神様の御ことば

 

 私たちは2023年の一年間、本日の御ことば(Ⅰテサロニケ2:13)を年間聖句として頂きました。私たちが普段神様の御ことばに対してどの様な態度を見せているのかによって自分の信仰が現れるものです。

 

 御ことばに従わなかったことを気づいてから人々は一般的に三つの態度を見せます。一つ目は何も感じない鈍感な態度ですがこの人は相当壊れた者として、ほぼ未信者の様である為に論外とします。二つ目は直ぐ悔い改めて神様の御ことばに従う様に努力する態度です。この様な人は躓いても倒れることはない信仰者であります。三つ目は頂いた御ことばに対して不快感を感じて不平不満を言ったり怒りに燃える反応を見せる態度です。御ことばにその様に反応することは神様の御ことばを神様の御ことばとして認めないことであります。その様な人の人生は道標を失った船の様に彷徨い結局難破してしまいます。

NO 247(2023年12月31日)

 

 

 

【どんなことがあっても

 

 私たちが礼拝の説教を頂く時に厳しい御ことばによってつらい思いをする時がよくあります。御ことばに従わなければその苦しみはより激しいし、それが生ける神様の御ことばの力(へブル4:12,13)でもあります。

 

 私たちは神様の子どもでありながらも主の御旨と御ことばに従うことが難しい罪人でもある為に、その格差による苦しみがあります。御ことばに素直に従う為には激しい戦いと固い決断が必要です。

 

 私たちは礼拝に参加して御ことばを聞くことがいくら辛くても礼拝の場から絶対離れてはいけません。どんなことがあっても神様の御ことばを聞くことに怠ってはなりません。大変な思いの中でも御ことばを聞くことに忠実な者は不思議に人生が整えられ主の中で安息と祝福を味わうことを体験する様になります。新年も礼拝を固く守りつつ、御ことばに聞き従うことに励む私たちとなりましょう。

NO 246(2023年12月24日)

 

 

 

【節と礼拝

 

 竹が真っすぐに成長する理由が二つあります。一つ目は成長が早いからです。一日で60cmを成長しながら平均20m、ある種類は40mも成長します。成長に集中する力によって40m成長しても真っすぐに伸びます。竹が真っすぐに成長するもう一つの理由は節があるからです。竹は節があるから中が空洞になっていても丈夫で真っすぐに成長できます。

 

 キリスト者にとって竹の節の様なものがあります。それが礼拝です。キリスト者は平日に仕事の忙しさの中でも毎週の礼拝を守って神様を仰ぎ主の御ことばによって生きます。毎週の礼拝を守っている者は礼拝がその人を守ってくれるのです。竹が節を造らなかったならば空洞の木は折れてしまう様に、キリスト者が礼拝を大事にしないで礼拝を毎週守らなければ、節がない人生となり色んな問題と大変な思いによって苦しむ人生を生きる様になります。

NO 245(2023年12月17日)

 

 

 

【偶像崇拝の時代

 

 手段が目的になることを偶像崇拝と言います。人の為にあるべきお金を人の命よりも大事にするか、人がお金の奴隷になっていること、国家は国民の為にあるものなのに国民が国家によって犠牲されていること、学生の為にあるべき学校によって学生が犠牲されていることは手段と目的が変わっていることであります。

 

 イエス様も「人が安息日の為にいることではなく、安息日が人の為にある(マルコ2:27)」と語られた様に、私たちの信仰生活の中でも手段が目的になってはいないか確かめることは信仰生活の中でとても有益です。礼拝も祈りも奉仕も献金も目的になってしまうと、それは偶像崇拝になります。

 

 創造主の神様を認めて主の御ことばに従いつつ私たちが愛し合い、神様の子どもとして共に生きることがキリスト者の生き方であります。私たちに与えられた御ことばに従順に従う時にこそキリスト者としての信仰が始まります。

NO 244(2023年12月10日)

 

 

 

【他人に仕える理由

 

 一生を子どもとして生きる人は親の心が分かりかねます。子どもは未熟であり、未熟な者は自分しか分からない者であるからです。

 

 釜山長山教会の信徒セミナーの参加者達をホームステイに迎えた方々は牧者達でした。彼らは一番いい部屋を用意して参加者を受け入れました。ある牧者はキングベットがあるのに、お客様の為にシングルベットを二つも購入したそうです。またある方は部屋のインテリア工事を行ったそうです。また私たちがお世話になった牧者は家全体を貸してくださいました。

 

 何故、彼らはそこまでやるのか。

 

 イエス・キリストによる愛と救いの喜びを深く経験した者だからです。仕える喜びは経験した者だけが分かる喜びです。後に神様の前に立つ時に、“主の愛に感謝して他人に仕える人生を生きました。主イエス・キリストのように実践しながら生きて来ました”と告白出来る者になることはどれ程、胸がワクワクすることでしょうか。

NO 243(2023年12月3日)

 

 

 

【時代を弁える霊性と知性

 

 パレスチナ武装組織ハマスがイスラエルの民間人に対してかつてない規模の攻撃をして住民数百人を殺害し、数百人を人質にしました。その結果、勃発したガザ地区にての戦争によって、数十万人のパレスチナ人が生活基盤を失い、1万人を超える命の犠牲が出ました。世界の世論は両分に分かれて激しく対立され世界戦争にまで拡大される恐れがあります。

 

 その中でパレスチナムスリムの2百人余りの人々が同時に夢の中でイエス・キリストに会い、改宗する奇跡的な回心のニュースがCBNによって報じられました。神様は戦争の中でも働いていると、パレスチナ宣教団体「地下キリスト教の働き」からの報告です。この戦争は終末に起きる予言の徴の一つでもあります。

 

 だから今を生きる私たちキリスト者は聖書の預言を再確認しつつ時代を正しく弁える為に霊性と知性を持って生きなければなりません。

NO 242(2023年11月26日)

 

 

 

【看板娘

 

 私は教会員の御葬儀にいくら忙しくても必ずやる仕事があります。それは故人の生前撮った写真で記念映像を作ることです。その仕事は故人を偲び、主に送る自分なりの別れの儀式でもあります。記念映像は告別式にて映し、参列者が共に故人を偲ぶ時とします。

 

 先週14日、愛する内山富子姉が享年104歳で天に凱旋されました。認知症によって娘のひさ子さんを「お姉さん」、牧師である私を「お兄さん」と呼んでいた内山姉は誰にも迷惑をかけない穏やかな“世界で一番可愛いおばあちゃん”でした。私は内山さんを館山教会の「看板娘」と呼んでいました。看板娘がいなくなった今、心の寂しさが増していますが、主が温かくお迎えてくださったと確信し感謝致します。鈴木拓男兄に続く、悲報で心の寂しさが消えない日々ですが、イエス・キリストの故に御国にて最高の笑顔で再会する望みで満ちています。

NO 241(2023年11月19日)

 

 

 

【神様の御業

 

 先週の月曜日は金恵珍師のビザ更新の為に千葉に出掛けました。帰りの道に親しい先輩である市原教会の金成圭先生に訪問した時に、教会の花壇を綺麗に管理している姉妹と挨拶を交わしました。会話中に15年ぐらい前に私の長男の燦(チャン)の剣道を教えていた在日韓国人の市東さんであることが分かりました。この前に説教に伺った時の私のことを覚えていたけど、私たちは互いのことを知らずにいました。

 

 市東さんは私たちがクリスチャンである為に、日曜日に剣道の試合は出られないことを伝えると、“日本でその様に言うと変な人として見られ、虐められるから気を付けてね!”と注意した人でした。しかし、15年ぶりに会った彼女は次女の難病によって主に出会い、今は教会の奉仕に熱心な信徒になっていました。不思議な出会いによって喜びつつ、人生の苦難によって家族が救われたことを見て、働いてくださる神様の御業を深く感じました。

NO 240(2023年11月12日)

 

 

 

【牧者たちが韓国まで行く理由

 

 家の教会の四本柱の一つがイエス様の弟子訓練である「見て学ばせる」ことです。献身的な働きを全うしている教会や聖徒たちの働きを見て、学ぶことはとても大事なことです。

 

 不思議に家の教会の中で優れた働きと模範的な家の教会を築いている教会の牧師や牧者達はもっと熱心に他教会の働きを学ぶ為に、研修プログラムやカンファレンス、セミナーに参加しているのです。見て学ぶ価値を知っているからでしょう。

 

 ある先生はアメリカのヒューストンソウル教会の研修に7回目参加したことの報告書を家の教会ミニストリホームページに載せました。その教会も研修プログラムとセミナーを開く程、立派な家の教会なのに頑張って、もっと優れた教会を見て学ぼうとするのです。今回牧者たちが韓国の長山教会にて開かれるセミナーに参加した理由ももっと献身している教会から学ぶ為です。

NO 239(2023年11月5日)

 

 

 

【祈りの答えと悲しい悲報

 

 私たちの残りの人生は短いし、あっという間に迫って来るとのことをいつも説教を通して語っていました。そして、高齢の聖徒の皆さんの最後は長く入院され苦しむことではなく、使命を全うして召されるまで健康である様にと、いつも祈っていたのでした。それが本人にも家族にも祝福されることであるからです。

 

 高齢者の教会を牧会する牧師としての辛さは、説教は神様から頂いて語るものの、いざという時には兄姉との別れによって苦しみ、寂しさを耐えられなければならないことです。

 

 先週22日(日)午前2時28分頃、息苦しいと語った鈴木拓男兄が救急に運ばれ、夕方7時45分頃に天に召されたとの悲報を伺いました。神様に祈っていたことが答えられたことに対する安心感と共に今月11日にお誕生日を祝ったこと、先週の礼拝後に笑顔で祝福し合ったことを思い出して悲しむばかりであります。

NO 238(2023年10月29日)

 

 

 

【宣教と熱心

 

 先週は韓国から来た宣教チームによる「小さなアートフェスティバル」週間でした。金スッキョン姉の福音ブレスレットと特別賛美、画家である沈銀河姉の作品展示会と保育園、教会での絵の指導、それぞれの賜物を活かす働きによって文化祭を開いたような豊かな時でした。

 

 宣教チームの働きの中で私が感じた大きな感動は金スッキョン姉の「伝道の熱心」に関することでした。誰にでも積極的に近づき話しかけ、福音ブレスレットを紹介しながら伝道する姿を見ました。時には相手の嫌な視線を感じつつ戸惑い、時にはその熱心ぶりを見ながら感動するものの自分はすっかり日本に慣れてしまい、福音を伝えることを躊躇していたことを自覚して恥ずかしい思いを覚える時でした。

 

 長い間、関係を持ち続けていた何人かの方が今回、再び福音に触れるチャンスとなりました。その方々が心を開き、救い主イエス様を受け入れます様に希望しつつ感謝します。

NO 237(2023年10月22日)

 

 

 

【言葉

 

 牧師である私は説教を始め沢山語る働きをします。時には自分の意図と違う意味が相手に伝えられ、よく失敗をするものです(ヤコブ3:2)。聞き手に自分が語る言葉の意図まで全部理解して受け入れて貰いたいと願うものの、なかなか難しいものです。語った言葉に対して家内からよく指摘されたりして自分の意図が否定されてしまった様に感じられ心が苦しかった経験も沢山します。

 

 言葉には五つのメッセージがあるそうです。一つは自分が言おうとしたオリジナルメッセージ、二つ目は実際に自分の口から語ったメッセージ、三つめは時間が経ってから自分が語ったと信じるメッセージ、四つ目は相手が実際に聞いたメッセージ、五つ目は時間が経って相手が聞いたと信じるメッセージです。一つの言葉のメッセージが五つもあるから私達の言葉は常に誤解を招きやすいものであることを知る必要があります。相手に信頼の心をもって理解し合う態度が私達に必要かも知れません。

NO 236(2023年10月15日)

 

 

 

【関係

 

 「いのちの道」の学びが始まりました。その教材の最初の問いかけが「クリスチャン信仰生活において一番大事なことが何ですか」です。

 

 それは聖書全体を巡る一つの主題、関係です。

 

 アダムが神様との契約を破ってしまった結果、罪人になった人間は神様との関係が断たれて敵となりました。そして、イエス・キリストの犠牲によって神様との関係が回復される道が与えられました。だからイエス様を信じることこそが人間が幸せになる道です。

 

 人間の幸せはお金でも、名誉でも、健康によってでも得るものではありません。全てが満たされていても不幸な人生は山ほどあるのです。逆にその条件が少し乏しくても幸せに生きる人は人間関係が円満な人です。だから神様との関係、次に家族・親戚・知り合いとの関係が上手くいくことによって人生の幸せが与えられることを忘れてはなりません。

NO 235(2023年10月8日)

 

 

 

【神様による気づかない時の御守り

 

 人々はこの世の人生の中で様々な悩みと苦しみによって大変な思いをしながら生きています。キリスト者も変わりは無さそうです。

 

 自分の証ですが、私はただ今の人生の中で心配や悩みが全くありません。怖い人もいなければ、嫌な人もいません。それは全てのことを神様に委ねて生きているし、主が私の日々の生活を守ってくださっていることを固く信じているからです。

 

 私たちが知らずの内に神様は全てを備えて導き守ってくださっていることを私たちは日々気づかずに生きています。私たちが主の導きと助けを気づく時は、何かによる苦しみの中で主の助けと奇跡を体験する時です。しかし、私達にとって最もよいことは私達が気づかないままに守ってくださる神様の御恵みの中で生きることです。神様によるその様な導きは気づかないだけで数え切れない程あるでしょう。その主の素晴らしい導きと愛の御守りを感謝しなければなりません。神様を崇めなければなりません。特別な奇跡より、毎日の生活の中で秘かに守ってくださる主の恵みを覚えて生きましょう。

NO 234(2023年10月1日)

 

 

 

【牧場

 

 私達の牧場は神の家族の集いになっているのですか。

 

 あなたの思いは如何ですか。牧場のメンバーを家族の様に思っていて、大事にしているのですか。牧場のメンバーの思いと願いは一致していて、共に心を一つにして祈っているのですか。皆さんは愛情と時間とお金を牧場の皆に注いでいるのですか。牧者だけが頑張っているのではありませんか。

 

 事情があって牧場の集いが休んだり自分やメンバーが休むことになった時の反応が二つあります。一つ目は牧場の仲間との交わりと分かち合いがないことがとても寂しくて残念に思う反応、二つ目は久しぶりに休むから喜ぶ反応です。普段の牧場の集いが神の家族の集いとしてよい交わりが出来ていたならば前者の反応が、そうでなかったら後者の反応が現れるはずです。

 

 私たちの天国はこの世を去ってからでは無く、既に牧場にて始まるものです。

NO 233(2023年9月24日)

 

 

 

【見て学ぶ努力

 

 私たちはより良い聖書的な教会を目指して学ぶために努力しなければなりません。世界中の様々な教会からヒューストンソウル教会の研修に参加しようと努力する理由があります。殆どが不思議にも全部良い教会として知られている教会です。もう研修や教会探訪をしなくても既に良い教会を成しているとも言われているのに、その教会の牧師、牧者たちは必死に参加しようと頑張っています。

 

 イエス様が弟子たちに教えてくださった教育法が見て学ばせる訓練であることと、聖書的な教会になるその価値を知っているから熱心に求めているのです。日本は見て学ぶ聖書的な良い教会の見本が少ない状況です。

 

 10月に牧者たちが韓国の釜山にて行われる「信徒セミナー」に参加する予定です。牧者たちが良い学びを受け、牧者と牧場が成長するチャンスとなります様に応援してください。より聖書的な教会となる夢を期待しつつ。

NO 232(2023年9月17日)

 

 

 

【右の頬を打つ者に左の頬も向けること

 

 イエス様が教えてくださったマタイの福音書5章39節bの「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」の御ことばに関する新たな悟りです。

 

 右の手で「右の頬を打つ」ということは手のひらで打つことでは無く、手の甲で打つことを言います。それは相手に痛みを与える意味よりは侮辱を与えようとする意図です。私に侮辱を与える上の者に対して取る態度は同じく右の頬を打つか、ただ黙って服従することです。しかし、どちらもよろしくありません。打ち返すと迫害を受けるし命の危機まで迫られるかも知れません。また私を侮辱する者に黙って服従すると私の尊厳性は失ってしまいます。

 

 「私の右の頬を打つ者に左の頬も向ける」と、どうなりますか。暴力を振って私を屈服させようとした者は当惑するはずです。それは「あなたは私の尊厳に傷つけることが出来ない」と対応することであるからです。「私の右の頬を打つ者に左の頬も向ける」ことは私より上の者であるあなたが私を侮辱して、屈従させようとしても、私の尊厳を奪うことは出来ないことを私を打った者に示しつつ、自分に対する尊厳をも自覚する行為であります。

NO 231(2023年9月10日)

 

 

 

【証し

 

 私は「証し」はキリスト者であれば、誰でも出来るものだと確信しています。何故ならば、証しは私がやったことを語ることではなく、神様が私の人生の中でなさったことを語るものだからです。

 

 言わば「成功の証し」とも言われる信仰によって勝利したキリスト者の証しだけが教会の中で流行ることは決して良い現象ではありません。キリスト者の信仰の人生って、一般的に認識する「世の成功した人生」よりは「失敗した人生」の方が普通です。何故ならば、罪人が生きるこの世自体がキリスト者として生きるのに相応しくない(へブル11:33-38)し、苦難と試練と失敗と病と苦しみが伴う人生が一般的だからです。

 

 だから“信仰によって、こんなに素晴らしい成功を納めました!”の様な成功の証しより、“御ことばに従ってもこの様に失敗しました。しかし、私は御ことばに従い続けます!”、“この様な激しい試練と苦しみ、悩み、病の中にいますが、信仰の中で立派に耐え続けています。私は主と共に歩む救いの人生から絶対離れません!”の様な証しを語る信仰者でなければなりません。その様な証しであれば、どんなキリスト者でも語られるはずでしょう。

NO 230(2023年9月3日)

 

 

 

【老僧の告白

 

 次は高僧の臨終に関わる機会が多かった韓国のある老僧の告白です。

 「高僧から”ありがとう、頑張って修行しなさい”等の美しい言葉を期待するけど、その様なケースは殆ど見たことがなかった。大体は世俗の人々の様に、酸素呼吸器を外すと、すぐ死に至ってしまった。不思議なことはその高僧の死後には立派な(しかも)漢文の「涅槃偈頌(臨終の際に誦する詩)」が公表された。それは本人が残したものではないことが明確である。恥として思うべき慣行である」と述べました。

 

 堕落してしまった仏教のことを語っています。堕落してしまったキリスト教もその様相は全く同じであります。ご利益主義と繫栄神学ばかりを求めて、この世の生活ばかりが益々豊かになることと、この世の富と成功ばかりを求める様になります。ひとりの魂を大事にすることよりも教勢の拡張ばかりを自慢し求める教会はもう教会ではありません。

NO 229(2023年8月27日)

 

 

 

【あなたが教会です

 

 クリスチャンであっても非クリスチャンであっても、よく勘違いをして使う言葉が「教会」です。館山教会と言うと皆が館山教会の礼拝堂を思い浮かびますが、館山教会の礼拝堂は実は館山教会ではありません。教会とはイエス・キリストを信じる人(々)だからです。しかし、人々は皆、教会を建物として聯想して、その様に何気なく使っているのです。

 

 韓国のクリスチャンの中では教会の礼拝堂を聖殿と呼ぶ牧師や信徒たちが未だに多くいます。驚くことです。聖殿はイスラエルにかつて建てられた神殿であり、今はイエス・キリストを信じることによって神様の聖霊が宿っている信徒自身であるからです。

 

 牧師がその様に呼ぶことは「礼拝堂献金」より、「聖殿献金」の方が良い響きとして献金をよく集められますし、聖殿というイメージによって信徒たちに礼拝堂を大事にさせ奉仕に協力させようとする何かの意図があることとして、非難されるべきことです。正しい用語を使うことによって正しい信仰が芽生えます。

 

「教会に行きましょう」と言わないでください。あなたが教会ですから。

NO 228(2023年8月20日)

 

 

 

【成功

 

 私たちは誰もが人生の成功を求めて生きています。

 

 その成功の意味は自分が求める人気、名声、富、夢等を成就することでしょう。しかし、聖書が語る成功とはこの世の人々が求める成功と違います。

 

 この世の判断規準であれば、兄弟たちによってエジプトに奴隷として売られたヨセフ。奴隷になっても忠実であったが結局投獄されてしまったヨセフの人生は充分に失敗した人生でした。この世の価値観で考えるとヨセフとしてはポティファルの妻と良い関係を持つか、脱獄して兄弟たちに仇を取るか、自殺してしまうかの選択肢しかありませんでした。

 

 しかし、聖書は神様が投獄されているヨセフと共におられたので成功する者となったと語っています。ヨセフは神様を信じていただけでなく、神様も自分を信じていたことを彼自身が知っていました。どんな状況におかれているのかに関係なく、神様と共にいること、主イエス・キリストから離れないこと、それが成功です。

NO 227(2023年8月13日)

 

 

 

【ユダとペテロ

 

 イスカリオテ・ユダはイエス様を裏切った後、後悔して銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り首をつって死にました(マタイ27:5)。同じくイエス様を裏切った(ルカ22:54-62)使徒ペテロは激しく泣いて、復活なさったイエス様から逃げてガリラヤに漁に行きました。

 

 ユダは積極的な裏切り者であり、ペテロは自分の弱さによる裏切り者ではあったのですが、何方もイエス様を裏切ったことは変わりません。また、二人とも後悔したことは間違いありません。しかし、何故ユダは呪われた者となり(使徒1:18)、ペテロは使徒として用いられたのでしょうか。

 

 二人の大きな違いは、ユダは自分の罪を自分の方法(自殺)で積極的に解決しようとした者であり、ペテロはただ自分の限界を感じて申し訳なくて逃げてしまった者でした。主はそのようなペテロに現れ、彼を回復させました。人間は自分の罪を自分の力で解決できる者ではありません。

NO 226(2023年8月6日)

 

 

 

【謙遜

 

 私たちが何かを神様に求め、祈ることはその問題を解決してくださる方が主、神様しかいらっしゃらないと告白する行為であるから、神様に祈ることは信仰者として素晴らしい態度であります。

 

 高慢な者は神様に祈ることが出来ないからです。だから私たちが何かを決める時には神様の御旨を探りながら知恵をくださる様に祈らなければなりません。しかし、それよりも優先されなければならない祈り課題が神様の御前で謙遜になる様に祈ることです。謙遜こそが知恵であるからです。知恵は神様が謙遜な者に与えられるプレゼントです。高慢な者は分別力がない為に正しく見ることも、正しく聞くことも出来ません。イエス・キリストに従って生きるキリスト者に求められる態度こそが従順です。謙遜な者は従う者です。そして、神様は謙遜な者の願いを聞いてくださるのです。

 

「主よあなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。」詩篇10:17

NO 225(2023年7月30日)

 

 

 

【教会を閉める者になったとしても

 

 館山教会に赴任して来た時に感じた課題に対して皆さんに語ったことがありました。館山教会は高齢者教会(その当時、聖徒の平均年齢74.6歳)である為、このままにすると早ければ5年、遅くても10年後には危機が来るとのこと。

 

 私は教会の門を閉める者にはなりたくなくて、”そうなるならばその前に私を死なせてください”とも祈りました。教会が続けられる方法を必死に探した挙句、主によって導かれたのが「家の教会」でした。その時、私は希望の光を見ました。

 

 その後、聖書を見ると初代教会は全て家の教会でした。

 

 私たち館山教会は聖書的な教会、イエス様が夢見ていた教会を建てることを決心し頑張って来ました。もう赴任して来て8年目、家の教会に転換して5年目となります。まだまだ先は見えてくることがなく大変な道程ではありますが、しかし今は希望があります。

 

 何よりも聖書的な教会、主が喜ばれる教会を立てる為に必死に頑張っているから、それで充分に満足しています。数的にリバイバルして欲しい!しかし、若し自分が教会を閉めることになったとしても今は納得できるのです。

 

 主が喜ぶ聖書的な教会を建て上げるために頑張ったからです。

NO 224(2023年7月23日)

 

 

 

【御ことばの力

 

 Corrie ten Boomさんにある男性が語りかけました。

 

 “私の事、覚えていますか?”

 

 彼はナチスの強勢収容所にて最も残忍な監督官でした。彼が言いました。

 

 “私はクリスチャンになりました。聖書の御ことばによって赦しがあることを知りました。私の罪に対しても知り、、、赦されました。その後、今まで私によって苦しまれた方々に赦しを求める機会を与えて下さいと祈っていました。私を赦して頂けますか。”

 

 彼女は彼によって苦しみつつ死んでしまった姉のことを思い出して、彼を赦すことは出来まいと思いました。しかし、許せない自分を感じている時にマタイ6:15の御ことばが思い出されました。

 

 「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」マタイ6:15

 

 聖書の御ことばによって赦さなければ自分も赦されないことを気付きました。そして、その後にローマ5:5が与えられました。

 

 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5:5

 

 彼女は聖霊が下さる神様の愛によって彼に手を差し伸べることが出来ました。

 他人を赦すことが出来ない者が赦せる様に出来たことは神様が下さった御ことばの力です。

NO 223(2023年7月16日)

 

 

 

【コミュニケーション

 

 先々週、東京基督教大学学長であり教団理事の山口陽一師がいらして礼拝に説教を取り継いでくださり感謝でした。後に先生から金恵珍師は牧師であるが教団の牧師ではないことで誤解を避ける為に週報には協力牧師と記載するのが望ましいとアドバイスを受けまして本日からその通り訂正しました。

 

 教会の働き中ではコミュニケーションがとても大事であります。不必要な誤解によって教会と聖徒たちが傷を受けてはいけないからです。

 

 そういう意味でコミュニケーションの為にもう一つ、エピソードの説明が必要かと思います。礼拝後に私が聖徒の皆さんに“皆さんがちゃんとやらないと、恩師である山口師が李師の牧会は駄目だねと思うかも”と冗談を言いましたが、その時の「ちゃんとやること」って、皆さんがどの様に理解したのか気になりました。私が伝えたい聖徒の皆さんが「ちゃんとやること」とは「お互いに愛し合うこと」です。神様の愛によってお互いが理解し合い、助け合い、愛し合うことそれこそが私達が神様の子である確かな徴です。

NO 222(2023年7月9日)

 

 

 

【論理性を減らして、愛を増して

 

 私は比較的に論理的な者である為、聖書も自分の頭で論理的に理解出来なければ疑問を抱く者でした。聖書に対するその疑問が聖霊によって教えられた奥義を悟り解決された経験が重なり、今は御ことばに疑問を感じる度に聖書の問題ではなく、自分の愚かさの問題であることをよく知っています。

 

 論理的な人は他人を批判しがちです。私たちは他人を自分の様に受け入れない者である為に積極的に、又は消極的に判断する傾向があります。しかし、人を批判する思いを抱く際には、その批判によって教会共同体が一致されるのか分裂されるのか、その人の為になるのか傷になるのかを熟考しなければなりません。

 

 論理性を減らして、愛を増して。

 

 愛する思いが充分で無い限り誰かに対して批判、判断は止めましょう。自分が好むことだけを主張すると、周りに自分の様な者しか集まりません。高齢者教会が喜ぶことだけを求めると高齢者だけが集まります。主の教会はどんな人も愛し合い共に生きる共同体であり、それを主が望んでいるのです。

NO 221(2023年7月2日)

 

 

 

【牧会者カンファレンス

 

 先週、家の教会14回牧会者カンファレンスに参加しました。韓国蔚山のダウン共同体教会の朴ジョングク先生が講師として務めてくださいました。最も心に残る教えの一つは「真実な共同体を作ること」でした。只管それだけを求めて走って来た自分にとって今までの働きが励まされ心から感謝でした。

 

 日本家の教会ミニストリーは地域牧師牧場が活性化されず、大変な状況でしたが今回、関東牧師牧場が新たに結成され、毎月一回の集いを持つことを決めました。

 

 キリスト者は自分の益ばかりを求めて生きる者ではなく、他人の幸せと必要を優先して満たしてあげることによって、御ことばの恵みと奇跡と祝福を味わう者です。そのスピリットが聖書的な教会、初代教会の精神であり、主イエス・キリストが夢見て建てた教会の本当の姿であり、牧場の中で現わすべき美しい姿であります。

NO 220(2023年6月25日)

 

 

 

【家族牧場

 

 先週の主日の夜、初めて「家族牧場」をやりました。

 完全な形ではありませんでしたが主の導きの様に感じられてよかったのです。恕隣と私たち夫婦が、また健と私たち夫婦が電話で家族牧場が出来ました。来週は四人でやることを決めました。家族牧場をやりながら感じた最初の思いは「恵み」でした。

 

 今までの様に子ども達は自分がどれ程、大変な日々を過ごしているのかの愚痴をこぼすことを已め、家族牧場では一週間の感謝と、礼拝説教による恵みと、祈り課題を分かち合いながら家族が祈る喜びに満たされました。家族牧場の中に神様が共にいることを感じつつ主による恵みを感じました。恕隣はフィリピン留学で感じる辛い日々の中で自分の未熟さを感じつつ、神様の導きを感謝し、苦難の中で成長していることを語りました。流石に家の教会の分かち合いは主による恵みと祝福が溢れるものですね。

NO 219(2023年6月18日)

 

 

 

【真のキリスト者

 

 神様によって選ばれ、イエス・キリストを信じる者には救いの道が与えられました(救いの過去形)。与えられた救いが完成される為にはその救いの道を最後まで歩み続け(救いの現在形)、最後まで歩み切らなければなりません(救いの未来形)。クリスチャンの中でも、その秘密を知らない者が多くいるようです。

 

 信仰によって救われたと信じているキリスト者に最も大事な働きは救われた者に相応しい「品性」を磨くこと(聖化)です。この世で唯一に得て御国に持って行くもの(品性)によって私たちは主の御前で評価されるからです。

 

 私たちの信仰は態度と行いによって現れるものです。誰も見ていない時に私は真のキリスト者として生きているのか自分自身を見ましょう。私たちの考え、思い、心が守られ(箴言4:23)、常にイエス・キリストの身丈にまで満ちる様にひたすら走り続ける者、それが真のキリスト者です。

NO 218(2023年6月11日)

 

 

 

【祈りに隠された思い

 

 進学の為に、就職の為に、何かを求める時に、聖徒であっても教職者であっても自分の進路の為に長い間、熱心に祈り続けるキリスト者に沢山出会いました。そして、彼らの殆どは願いが叶われると、神様の導きであると感激して証しました。導かれた所が宣教地であると告白して喜びました。

 

 しかし、神様が送ってくださったと告白していた所が自分の期待と違い、辞める時には長い間、切実だった祈りは忘れてしまい、皆簡単に離れてしまいました。神様が送ってくださった所であると証したのに、主による導きであると告白したのに、ちょっとだけの苦難があったら簡単に諦めてしまうのです。

 

 辞める時に神様の御旨は確かめたのか、そうでなければ神様が気まぐれなお方であったのか、皆辞めては二度も振り向かないのです。一体、その祈りとは本当に神様の御旨を探る祈りだったでしょうか。もしかして祈りを借りて自分の望み、自分の計画、自分の欲を表したではなかったでしょうか。

NO 217(2023年6月4日)

 

 

 

【主による奇跡は現在進行中

 

 本当に聖書的な教会、初代教会がこの時代にも造り上げられるのでしょうか。

 韓国釜山の長山(ジャンサン)教会にて会った牧者たちの献身を拝見するまでは私自身も半信半疑でした。長山教会にて会った牧者たちの献身は私が想像するレベルを遥かに超えるものでした。

 

 総合失調症、鬱病、躁鬱病、アルコール依存症、悪霊に取付かれているVIP達に仕えているある女性牧者と面談をしました。彼女は牧員とVIPを本当の家族のように仕えていて、その献身は常識を超えるものでした。その牧者は自分の旦那と息子までほったらかして牧員とVIPに仕えて献身しました。“どうして、そこまで働きが出来るのか、諦めたくなかったのか”と訊きました。彼女は“自分も諦めたい時が多かった。しかし、自分が諦めると彼らを受け入れてくれる他の牧場がなかったから…”と答えました。

 

 その献身の結果、奇跡が起きました。悪霊が離れ、病気が癒され、イエス様を受け入れたVIPは牧者として次々と献身しました。勿論家族にも神様による回復が与えられました。その奇跡は現在進行中です。

NO 216(2023年5月28日)

 

 

 

【時を見る知恵

 

 終末の時には異端の教えが蔓延ると聖書は警告しています(Ⅱテサロニケ2:1-12)。私たちが生きているこの時代が最後の時であることが肌で感じられる理由の一つがモルモン教、エホバの証人、旧統一教会、新天地等々の異端の活動が激しいことです。

 

 好きな歌を何度も何度も聴く人はその曲のメロディーの何処かが少しでも間違ったら直ぐ気付くはずです。聖書の御ことばを愛している者はこの世の成り行きを見ながら、聖書の終末の警告を思い出して、確かに今の時代は可笑しい事に気付き、いよいよ人類の最後の時が近づいていることが判るのです。

 

 ノアの大洪水の審判の時に人々は裁かれる寸前までもこの世の快楽に溺れて死ぬまで分からなかった様に、イエス様の再臨の時も同じ雰囲気になります。主が直ぐに来られても不思議ではないこの時代に私たちは聖書と新聞を読みつつ、時代を弁えなければなりません。主の御約束は必ず成就されるからです。

NO 215(2023年5月21日)

 

 

 

【律法の恵み

 

 高等宗教の中心には恵み(Grace)と業(Karma)の概念があり、特に業の概念は全ての宗教にあります。「目には目、歯には歯」という概念です。自分が蒔いた通り刈り取る概念は現在の法律の基準となっています。犯した罪に相応しい罰が与えられるその規準として、バビロニアのハンムラビ法典が有名です。

 

 それよりも古い聖書にも同じ様な戒めが記録されています。

「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。」レビ記24:20

 

「あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。」申命記19:21

 

 だからクリスチャンさえも聖書の御ことばを裁きの定義として認識したりします。しかし、聖書によって示された律法の命令はハンムラビ法典の様に罰を下す法令よりは、神様の御恵みを悟られる戒めです。

 

 人間は罪深い者として他人から目とか歯にダメージを受けると、目と歯位の仕返しで終わることではなく、命さえも奪おうとするものです。その罪性に対して聖書は目には目以上は、歯には歯以上は仕返しを禁じる律法によって人間社会を守っているのです。

NO 214(2023年5月14日)

 

 

 

【説教

 

 アメリカイェール大学の宗教学科名誉教授であるDale B. Martinは彼の著書『新約聖書の歴史と文献』の中で「よい説教とは苦しみの中にいる人達には平安を与え、平安の中にいる人達には苦しみを与えなければならない」と述べました。牧師である私にとって説教とは何であるべきかを深く考えさせられる言葉でした。

 

 私たちは礼拝の説教を通して何を求めているのかを深く考えなければなりません。私たちが説教を聞いて恵まれる時はよく自分が納得出来た時であります。それは説教の良し悪しの判断を自分が下していることです。自分が納得出来なくても、時には受け入れるのに苦しい説教で有っても神様の御ことばであるならば従う姿勢を持つことが良い信仰者の態度です。

 

 神様の御ことばは私たちの人生を正しく導いてくださる道標であるから自分の状況、自分の感情、自分の経験を優先しないで主の御教えに従う時に説教の御ことばが私の内で働いて力となります。

NO 213(2023年5月7日)

 

 

 

【関係

 

 世の中でも教会と牧場の中でも私達の生活の中で大事なのは関係です。世の中ではお金と成功を求めている為に関係が良くなくても我慢できるかも知れませんが、教会と牧場では違います。だから教会と牧場で私たちは良い関係を築くように努力する必要があります。

 

 聞いた話によると、よい関係を築く為には二つが大事だそうです。一つ目は「Acceptance(私は受け入れられているのか)」、二つ目は「Importance(私は大事な人なのか)」です。

 

 私を救う為にメシアである主イエス様が犠牲なさる程、私は大事な存在であり、イエス様が頭となる教会の大事な器官であります。だから教会はどんな弱さを持っている人でも、何も役に立たない人の様に見えても(その様な人はいません)、教会と牧場のメンバーである私達は皆、大切な、貴重な存在です。1万円の紙幣は汚れても皺くちゃになってもその価値は少しも減らない様に。だからお互いを大事にしつつ主の愛によって愛し合いましょう。

NO 212(2023年4月30日)

 

 

 

【親ガチャとキリスト者

 

 2021年、ユーキャン新語・流行語大賞のトップ10の中で「親ガチャ」という言葉が選ばれました。「親ガチャ」とは、子ども自身が生まれ育つ環境を選べないことを表すネットスラング(俗語)として、「親ガチャに外れた」は「良い親の元に生まれることができなかった」というネガティブな意味として使われています。

 

 それは日本の社会問題とそれに対する不満が表出した言葉として、両親の離婚、経済的に恵まれない家庭環境、親からの虐待による結果であるが、その問題は昔からもあったこととして、根本的な原因は所得・教育・地域・情報格差による社会問題です。

 

 この様な現代社会の問題の中でキリスト者として、健康に生きる為には私たちが神様から特別に選ばれた者という「新選民意識」の再認識が必要であります。それは私たちの人生の目的がキリストによって完成された神様の義を世に示して生きること、その使命を絶対に忘れないことでしょう。

NO 211(2023年4月23日)

 

 

 

【主の再臨を覚えて

 

 アメリカ世論研究所ギャラップが、ギャラップインターナショナル75周年を記念して61か国の成人5万7,768名にアンケート調査を実施して12日に発表しました。

 

 「私は宗教的な者なのか」の質問に対して、日本は15%が、韓国は36%が“はい”と答えました。神の存在に対しては日本の資料がありませんが、韓国は41%が存在すると信じていて(日本は2018年の調査では29%)、死後の世界に関しては35%が、天国は30%が、地獄は29%があると答えました。

 

 日本と韓国は無神論的な傾向が強くなっているのが目立ちます。現代は文明化され、益々生活が豊かになることによって神様の存在を忘れてしまった著しい結果であることが分かります。ノアの時にすべての人をさらってしまうまで、分からなかった様にキリストの再臨の時も同じである(マタイ24:39)と聖書は警告しています。私達は主の再臨を常に覚えて神様の前で生きる者になりましょう。

NO 210(2023年4月16日)

 

 

 

【再び家の教会へ

 

 私たちが「家の教会」によって初代教会に戻ろうとする理由はその教会の体制が聖書的な教会であるからです。それ以上の理由はありません。神様が喜び、聖書が教えてくださる教会が家の教会であり、主イエス様がキリストとしての極めて肝心な働きである、十字架の死、復活、昇天によって救い出した私たちに与えてくださった教会の本来の姿が家の教会だからです。

 

 家の教会は連合礼拝によって生ける神様を崇めるところ(意)であり、牧場の集いによって神様の家族が愛を分かち合うところ(情)であり、道コースの学びによって御ことばを訓練するところ(知)です。

 

 十字架の上で死なれたキリストの復活を通して完成なさった神様のご計画が究極的に現れるところです。だからキリストに従っている私たちはイースターの喜びが家の教会によって実現される様に努力しなければなりません。礼拝・牧場の集い・道コースの学びに積極的に参加しましょう。

NO 209(2023年4月9日)

 

 

 

【究極的な自立

 

 一人前の大人になる為には「行為の自立」、「意識の自立」、「経済的な自立」が必要です。自分の言動に責任を持つことは社会人としての基本です。そして、意識的にも情緒的にも誰かの奴隷となっては健康な社会人になることが出来ません。更に、経済的にも自立しなければなりません。

 

 この三つのことが健康な大人になる為の大切な要素であることは間違いありませんが、成熟なクリスチャンになる為にはその上に「霊的な自立」が必要です。神様は私たちが霊的な子どものまま、成長しないことを喜びません。

 

 「私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。」Ⅰコリント13:11

 

 成熟されることは自立して、一人前の大人になることだけを意味することではなく、人に仕える者として成長することであります。5千人分を独り占めすることではなく、5千人を食べさせる者として生きることこそ、もっと崇高な価値ある人生を生きることであります。共に生きる人生によって神様を感じ合う私たちとなりましょう。

NO 208(2023年4月2日)

 

 

 

【甲殻類から学ぶ知恵

 

 聞いたことがある話しですが、カニ、エビ、ロブスター等の甲殻類は体の中に骨がなく、外骨格という硬い外皮に包まれていて、複数の体節によって構成されている動物です。だから甲殻類が成長する時には硬い外骨格から脱皮しなければなりません。脱皮したばかりの甲殻類は柔らかい体によって敵に襲われやすいし、傷つきやすい状態になります。しかし、その時こそが甲殻類が成長する時であります。成長する為には必ず脱皮して、苦難の時を経なければなりません。

 

 私たち人間の心も甲殻類のように丈夫な外套に包まれている時ではなく、弱くて傷ついて、人生の苦難を乗り越える時に成長します。全てが満たされている時には成長しません。脱皮したばかりの甲殻類の様に人間は人生の苦しみの経験によって神様の掟を学ぶことが出来るし、成熟し、成長するのです。

 

「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」詩篇119:71

 

 人生の苦難の価値を悟った者こそが、神様から与えられる訓練による幸せの意味が解るでしょう。

NO 207(2023年3月26日)

 

 

 

【家の教会の4年間の変化

 

 私たちは今月末で家の教会を取り組んで丁度4年を迎えます。

 

 私たちは館山教会が聖書的な教会、初代教会の姿に取り戻すことだけを考えて、只管走って来ました。その働きがどれ程の実を結んだのかを考えながら、牧場の集いを通して何名の魂が救われ主の弟子となったのかを思い、4年前とそんなに変わりはないではないかと意気消沈する方がいるかも知れません。

 

 しかし、神の国は人数の多少にあるわけではありません。

 

 私たちは4年前よりも、もっと愛が溢れる教会となりました。未信者である家族と知り合い、隣人の救いの為に祈る様に変わり、その為に今も精一杯働き続けています。現在も牧場メンバーのお互いが愛し合い、助け合い、慰め合い、励まし合う共同体として成熟し続けています。

 

 4月から再編成される牧場でも私たちは神の家族として一層お互いが愛し合い、VIPの救いの為にもっと励み、キリストの愛をこの世に示していきましょう。

NO 206(2023年3月19日)

 

 

 

【流れ

 

 私達夫婦は3/1-7の日程でフィリピンドゥマゲッティにあるブレッシング教会にて家の教会の研修を受けました。ドゥマゲッティはフィリピンの中でも貧困な町であり、ブレッシング教会の聖徒はもっと大変な生活を営む方が多かったのでした。その様な教会が家の教会として、礼拝と牧場と道コースの学びを立派に成していました。

 

 牧者たちは大変な生活の中でも牧員とVIPに仕えながら神の愛を実践していました。その働きを拝見しながら、感じたのは「ここが天国だ!」という思いでした。

 

 水が高い所から低い所に流れる様に、ものは豊かな所から欠乏の所に流れることが自然の法則です。しかし、この世は貧しい人から富んでいる人に流れています。流れが天国と地獄を造ります。

 

 聖書を見れば、天国も富んだ者と乏しい者の差があるところです。この世の人生の報いが違うからです。しかし天国が天国である理由は正しい流れによって皆が幸せに生きるからでしょう。私たちも神様が望む家の教会をなして、この世の中で正しい流れを作ることによって天国を味わうことが出来ます。

NO 205(2023年3月12日)

 

 

 

【リバイバル

 

 皆様は礼拝を捧げる為に8時間並ぶことが出来ますか。行列をつくる有名なラーメン屋ではなく、ディズニーランドでもなく神様に礼拝を捧げる為に人口6千人の小さな町に起きている不思議な出来事の話しです。

 

 2月8日、米国のケンタッキー州アズベリー大学の定期チャペルが終わった後、その日の学生たちは授業を受ける為に戻ろうともしないまま讃美を続けながら、自分の罪を悔い改めつつ、隣人の為に、国の為に祈り続けました。“この場を離れないで祈りなさい”との声を聞いた人もいました。

 

 ”聖霊によるリバイバルである!”との噂は米国全地域に広がりました。先ずは近所の大学の学生たちが加わり始め、車と飛行機に乗って聖霊によるリバイバルを経験したいクリスチャンたちが次々と集まって、入ることが出来なかった人々は列を作りました。24時間続く礼拝は既に2週間を過ぎてしまいました。そして、聖霊の風は米国全地域と世界に広がっています。皆様は聖霊によるリバイバルを求めているでしょうか。

NO 204(2023年3月5日)

 

 

 

【契約

 

 聖書を見ると、私たちが信じている神様は全知全能なるお方なのに人間である私たちと契約を結んでいることが分かります。

 

 エゼキエル書16:62では「わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知る。」と神様は語られています。契約をして守られる神は本当の神です。神様は主の予言を歴史の中で成就することによって主が真の神様であることを自ら証明しています。

 

 この世のどの神が、この世のどの宗教の経典が予言した通りに歴史の中で成就したでしょうか。聖書の神様しかありません。それだけ見ても聖書の神様が本物であることが分かります。私たちの父なる神様は私たちをロボットのようにではなく、人格的に触れてくださるお方であります。

 

 悪しき者が死ぬことも、裁かれる事さえも喜ばない(エゼキエル書33:11)神様は、主の御名の為に私たちと結んだ御約束を守ってくださることを私は固く信じています。あなたは如何ですか。

NO 203(2023年2月26日)

 

 

 

【恵みに満ちた神の家族

 

 私たちの館山教会は食事代が無料ですが、それに対して食事代をちゃんと支払って昼食を食べたいという声があります。いつも自腹を切って食事の奉仕をしてくださる方に対する配慮の心でしょう。日本の文化に慣れている私たちは正当な代価を払うことに慣れているし、その方が楽です。その様な考えは借りを負いたくない自立的な思考であり合理的でもあります。

 

 しかし、教会は合理的な考えによって構成される共同体になってはなりません。何故ならば、私たちは「神の家族」だからです。奉仕してくださる方は神様が報いてくださるし、その献身によって主の報いを体験する様になるから心配は要りません。教会は恵みの共同体であります。

 

 イエス様がぶどう園の喩え(マタイ20:1-16)によって教える教訓は哀れみと恵みでした。働いた時間と関係なく同じ賃金を渡した主人の非合理的な心は、受ける資格が無かった私たちに救いの御恵みを与えてくださった神様の愛の心でした。

 

 私たちが他人であるならば相応しい代価を支払うべきであります。しかし、私たちが「神の家族」であるならば、私たちに必要なものは恵みであります。「神の家族」は愛と恵みの共同体でなければなりません。

NO 202(2023年2月19日)

 

 

 

【欠乏の中でも

 

 神様は私たちが幸せに生きることを望むお方です。幸せは満たされる事によって訪れるものではなく、欠乏の中で全能なる神様の愛を自覚する時にこそ味わえるものです。

 

 炎症性臓器障害を起こす「全身性エリテマトーデス」という病によって18年間も苦しんでいるある姉妹がいました。自己免疫の異常によって自分の細胞や組織を破壊することにより皮膚、神経組織、肺、腎臓、心臓、造血器官等の全身の全てにダメージが与えられる、激しい苦痛が伴う病気です。

 

 その姉妹は苦しい闘病生活の中でもいつも笑顔で、色んな奉仕をしつつイエス様を宣べ伝えているそうです。激しい苦痛を感じている中でも、毎日に感謝が溢れて神様を賛美する彼女は神様から与えられる真の平安によって“生きててよかった!”、“私は幸せです”と告白しています。欠乏の中でも救い主イエス・キリストによって救われた喜びに満たされている彼女が味わう平安と幸せをこの世の中で誰が奪うことが出来るでしょうか。

NO 201(2023年2月12日)

 

 

 

【納得出来なくても主の導きであれば

 

 自分の子ども教育に関して、より良い教育をさせたいという思いは親が持つ極めて自然な考えです。しかし、使命によって献身した宣教師であれば、親としての基本的な欲さえも棄てるべきであります。子ども教育に関する欲さえも神様の前で降ろして主に全てを委ねる信仰を持つと、生ける神様の奇跡を体験できます。

 

 今回の宣教師大会で不思議な主の導きによって末っ子の恕隣を宣教師の子どもの為にフィリピンに建てられた「マニラ韓国アカデミー」に送ることとなりました。宣教師の子たちは現地の学校に通わせるべきであるという自分の持論と正反対の結論を下すこととなりました。自分にとっては納得出来ないことでしたが、主の導きであることを感じて従う決心をしました。

 

 子どもの留学のことは考えもしなかったことでしたが、信仰の友がいなかったことが気懸りであった娘に対する、神様の導きであることを感じます。もうちょっと傍で成長を見たいという気持ちがありましたから寂しい思いで一杯です。留学に行くことに関して反対すると思っていた娘の喜ぶ顔を見ることも不思議な気がします。

NO 200(2023年2月5日)

 

 

 

【特別な献身の理由

 

 家の教会の中で立派な働きを成しているヒューストンソウル教会は全世界の家の教会ミニストリーの中の数千教会の模範となっています。特に同教会の聖徒たちの献身は特別なもので、多くの牧師と聖徒たちが研修する聖地の様な手本となっています。

 

 何故ヒューストンソウル教会の聖徒たちの献身は特別なものなのか?その疑問に対して、主な理由の一つが彼らの持っている天国への希望、また神様から与えられる報いに対する固い確信によるものであることが解りました。その様な信仰はこの世のどんなに激しい苦しみさえも、まるで旅中で経験するアクシデントの一つの様に受け入れる力となっています。旅が終わると、旅中の大変だったアクシデントが不思議に楽しい思い出と変わります。大変であればある程、特にそうです。私たちが天国に入った時にきっと同じ経験をするでしょう。

 

 御国への希望は神様に対する献身のエネルギーとして変わり、将来に受ける報いの希望となり、現在の苦難を乗り切る糧となっているのです。それは聖書を通してくださった神様の確かな御約束が歴史を通して成就された事実によって確認される信仰によるものであります。

NO 199(2023年1月29日)

 

 

 

【チャレンジの時間

 

 礼拝の時に行われる「チャレンジの時間」に負担を感じていて、その時に嫌な思いをしている方はいらっしゃいませんか。

 

 皆さんがその様に負担を感じることは当り前のことです。負担を感じる理由は私たちが罪人である為、神様の御ことばを喜び、頂いた御ことばに積極的に従おうとする心がないからです。

 

 「チャレンジの時間」はその様な自分の思いを生々しく感じて、その時に自分の罪性に気付き、心の葛藤の中で戦いながら主による助けを求める時であります。だからチャレンジの時に負担を感じることは極めて正常なことです。沢山葛藤しつつ悩んでください。そして自分の罪性を覚えて沢山絶望して自分の力では何も出来ないことを深く悟ってください。私たちは自分に対して絶望を覚える程、神様を求めることが出来ます。「神様の御ことばを神様の御ことばとして信じて」主の前で決断することを通して神様の御ことばが私たちのうちに働くことを体験してください。

NO 198(2023年1月22日)

 

 

 

【神体験

 

 去年の末から新年に続いて神様が館山教会に特別な祝福を与えてくださる徴を沢山経験していて期待が高まる新年です。

 

 様々な課題の中で神様による不思議な出会いを通して順調に導いてくださる主の助けを体験しています。先が見えず、課題が解決されなくて悩んでいたことが、そして考えもしなかった悩みの種となっていたことが、神様の不思議な導きによって一気に解決される経験は大きな喜びとなります。

 

 私たちの人生って、この世を去る時から本番に入りますが、この世の旅路の中でも神様による驚くばかりの体験によって、生ける神様に出会う神体験は信仰の成長にとても有益です。その様な体験をする為には先ず、神様の前で悔い改め、全てを主に委ねる信仰が要ります。

 

 自分の欲を捨て主にオールインして、何もかも諦めたその時から神様による素晴らしい導きを体験します。だから賢明な者はその奥儀を早く自覚して最初から主に委ね従う者であります。

NO 197(2023年1月15日)

 

 

 

【関係が切れる時には

 

 人生の中で出会いは大事ですが、出会いよりも大事なのが別れであると思います。私たちが生きる時に人々と、どの様な形で別れるのかはとても大事です。ある弁護士の話しによると、刑事告訴状を書いて欲しいと依頼する人の殆どがよく知っていた人に対してであり、知らない人との紛争は少ないそうです。

 

 私たちがこの世を去る時や、誰かとの関係が切れ、別れる時にはよく仲直りをして、よい思い出を残すことが大事です。最後の印象が悪いとその人との全ての思い出は良かった時までも負の印象として残るからです。関係を始める時には何か少し問題があっても引き返すチャンスがありますが、関係が切れた後はそのチャンスはありません。私も個人的にその様な形で、最後の別れが良くなかった方々がいました。その方のことを思い出す度に良くないイメージが思い浮かびます。この世を去った方であれば、その良くないイメージのままに永遠に残っているはずで、残念な思いで一杯です。

 

 私たちの人生は春夏秋冬があり、また春が回って来るから何処かでどの様な形で再会するかも知れません。この世を去る時には未信者であれば永遠に再会するチャンスがないし、信者であれば必ず再会する時が来ます。だから私たちはキリスト者として周りの人々と良い関係を持ちましょう。

NO 196(2023年1月8日)

 

 

 

【夢を見て悟られた奥義

 

 先週の月曜日の夜、若い時に仕事(私は韓国にてインテリアデザイナーでした)の中で自分がおかした様々な失敗を再び経験する夢を見ました。夢の中で“これは夢だ”と認識していたのでしたが、自分がおかしてしまった様々なミスを再び経験しながら心細い思いをしました。

 

 目が覚めた後もその夢は生々しくて不思議な気がしました。そして、その夢によって悟られたことがありました。自分の体は53歳なのに心そのものは夢の中でも、夢を見た後でも変わらず青年の様に感じられたことによって「齢は老いても心は変わらず青年である」という言葉を思い出しました。その意味は齢を重ねることは私自身を盛っている体だけであって、私の本体である霊魂は年を取るわけではないことです。私たちが御国に入る時には、古い服(体)を脱ぎ捨て、若い本来の自分に戻る訳であります。

 

 その不思議な奥義を悟ると、私たちが生きる本当の人生の秘密を一つ解けた気がしました。

NO 195(2023年1月1日)